息子の絵本棚には「Waiting is Not Easy! (待つのって、たいへん!)」という絵本がある。この絵本は、ジェラルドというゾウがある大切なことを学ぶ様子を描いた短い物語だ。ジェラルドは友だちのピギーが秘密のプレゼントを用意してくれていると聞くが、ジェラルドはそれを待たなければいけない。待って、待って、待ち続けなければいけない。
待つということは難しいけれど、待つだけの価値のあるものなら、待つことは良いことだ。むしろ、良いことは大抵待たなければ手に入らないのかもしれない。
2006年、僕(ジェイミソン)は異文化宣教をあえて職業とする道に進みたいと考え始めた。ということは、僕は今年ですでに10年もの間(今までの人生の3分の1くらい)、その道が開かれるのを待っていたことになる。今まで何度も待つことに耐えられなくなり、「一体いつまで待たせるのですか?」と神に苛立ちを訴えたこともある。今も、日本に行く日が近づくにつれて、僕は同じ疑問を抱いている。でも今回は、神を責める気持ちはなく、むしろこの長い期間待つことを通して、神は僕たちに何をなさろうとしているのか、神の目的は何だろうかと、深く考えさせられている。
僕の「なぜ?」という問いに対して、神がはっきりとした答えをくださることは少ない。部分的に明らかになってくることがあったとしても、この待つという期間に神が何をなさっていたのかを完全に理解することは、きっと今後もないだろう。しかし、あわれみ深い主は、この10年の間に神が僕たちにしてくださったことをわずかながら覗き見ることができるよう、扉をほんの少しだけ開けてくださったような気がする。
足をひきずって歩く男:
僕の好きな神学者の一人、シンクレア・ファーガソン師は、創世記からヤコブの人生について説教のシリーズをしたことがある。ヤコブはプライドが高く、よく人を騙した。そんな彼は、14年間にわたる外国での労働の末、故郷へ戻った。その道中、彼は神と格闘し、勝った(創世記32章28節)。しかしその経験が彼を一生変えたのだ。
「彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。」(創世記32章31節)
ヤコブの誇り高ぶった態度は、びっこを引く足へと姿を変えた。しかしここで、彼の上には太陽が上っていたことに気付いてほしい。足を引きずる姿になったとしても、主のあわれみが頭上に輝いているヤコブは、幸いだった。土の器から神の測り知れない力が表されるのは幸いなことだ(コリント人への手紙第二4章7節)。そして、何年も待ち続けた後に、イエス・キリストへの完全なる信頼をもって宣教の働きを始める人もまた、幸いだろう。そうなることを、僕は期待している。
10年前、僕は人に貢献できる人間だと思っていた。僕なら何をやっても成功するだろう、だって俺は「強い男」だから − 思い返すと全く嫌気がさす。感謝なことに、神は時間をかけて僕の愚かさと無力さに気付かせてくださった。神を離れては、僕は何もできない(ヨハネの福音書15章5節)。この事実は決して簡単に飲み込めるものではなかった。しかし、主が人間の弱さを尊び用いてくださり、その弱さを通して神の力が表れることを知った僕には、想像以上の自由と希望が与えられたのだ。
底荷を積んだ船:
外国へ行ってそこに住む、というのは、特に僕たちの世代にとってとても魅力的に聞こえるようだ。持ち物を全部一つのスーツケースに詰め、全く違う人生を歩む。考えるだけで、なんだかワクワクする。振り返ってみると、そもそも僕が異文化宣教に興味を持ち始めたきっかけも、何か新しくて楽しい、人と違ったことをしたいと思ったからだった。
しかしアドレナリンは10年(もしくはそれ以上)ともたない。ましてや、結婚をし、子供もでき、白髪も目立ち始めた日にはなおさらだ(ちなみに髭から始まった僕の白髪は、日に日に頭部に攻め上がってきている)。
今も、もちろん宣教の働きに魅力を感じているが、それはかつてのワクワク感に根ざすものではない。原動力はアドレナリンから確信へと変わった。僕たちの前任牧師であったジョン・パイパー師は、このことについて分かりやすく教えてくれた。宣教の働きを船に例えるとしたら、神の栄光は船の底荷(おもり)だ。底荷のおかげで、船は強風や高波に耐えることができる。神が全ての人に褒め称えられるべきお方だという確信を持っているなら、それは船のおもりとなり、嵐の中でも安定して進むことができるようになる。僕たちが今も変わらず宣教の道に進もうとしている理由はただ一つ:イエス・キリストが全ての栄光、称賛、賛美、礼拝を受けるべきお方であるからだ。そして、日本のように、まだそのことを知らない国があるからだ。
大切な人たち:
ここ数年、僕たちはキリストにある多くの兄弟姉妹と知り合い、共に成長する機会が与えられた。彼らの中には僕たちを送り出し、支え、宣教の働きを共に担ってくれている人も多い。もし僕たちがもっと早い時期に日本に行っていたら、今与えられている大切な人たちとの出会いはなかっただろう。これは決して、小さなことではない。神が時を延ばしてくださったからこそ彼らと時間を共有できたことに、僕は本当に感謝している。数年前にはなかった心強さが、今は確かに感じられる。
特に家族との時間は何にも変えがたく、子供たちの成長の喜びを共有できたことに感謝している。
神が時を遅らせてくださっていることの恵みは、もう一つある。もし、もっと早い時期に神が扉を開かれていたら、僕はおそらく「活動」中心のプログラムを組み立てしまい、今程「人」に目を向けていなかったと思う。神の時を待つことを通して、僕たちは一人ひとりの存在の大切さを日々痛感している。プログラムは人に仕えるための型にすぎない。ただ単純に相手を知り、その人を愛するとき、そこには不思議な力が生まれるように感じる。
もちろん人間同士である限り、時にはこじれたり、傷つけ合ったり、イライラしたりすることもあるが、それに勝って、人には神の造られた尊厳と価値が備わっているのだ。神の似姿に造られ、とこしえまで続く兄弟姉妹との関係は、何と素晴らしいことだろうか。それだけではなく、神は人となって私たちの間に住まわれることにより、創造主である神とも親しい関係を持てるようにしてくださった。その素晴らしさを日本の兄弟姉妹と共に味わう夢は、僕の白髪の数とともに、大きく膨れ上がっている。
主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。(哀歌3章25節)