避けられない宣教への召し

想像してみよう。

もし、全てのクリスチャンが、知っている限りのクリスチャンでない人にキリストの福音を語るとしたら。それでもなお福音に触れることのできない人たちが、一体何人いるか分かるだろうか?

少なくとも、2億人だそうだ。これは、すごい数字ではないだろうか。地球上に住む2億人以上の人が、福音に触れる機会が全く与えられていないのだ。この人たちは、産まれ、生き、そして死ぬまで、誰一人としてイエス・キリストのことを真摯に語ってくれる人に出会わない。このような人々は「Unreached(アンリーチド=福音が伝えられていない人々)」と呼ばれている。

ここをクリックすれば、この課題を取り上げている動画が見られるので、是非おすすめしたい(15分ほどのところからスタート)。

僕たちが宣教の召しを受けた時、別に何か奇跡的なことが起こった訳ではない。神が僕たちの人生にユニークな形で働きかけてくださったのは確かだけど、神からの幻を見たわけでもないし、預言的な言葉が語られたわけでもない。宣教の地を示す不思議な夢も見ていない。ましてや、「日本へ行きなさい!」という言葉が実際に聞こえたなんてこともない。

では、日本に行くことが神のみこころだと思う一番の確信は何かというと、それは聖書にある(当たり前かもしれないが…)。それに加えて、日本人が福音に触れる機会が少ない、という事実を知ったことも大きい。

マタイの福音書28章で、キリストはこう命じておられる。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊のバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

このみことばを読むと、あらゆる国の人々を弟子とすることは、全てのクリスチャンに与えられた召しだと改めて思わされる。これを読むあなたがクリスチャンなら、あなたも例外なくキリストのための働きに召されている。全ての国々が神を知り、礼拝する喜びを知ることができるよう導くために。

その時、あなたが自分自身に問うべきことは、一つだけある:「私の役割は何だろうか?」

神が僕たちに与えてくださった役割は、使徒パウロに似たものだと思っている。それは、「…キリストの御名がまた語られていない所に福音を宣べ伝えること」だ。(ローマ15章20節)

パウロもまた、宣教への道を決意した時、その確信は聖書から得ている。確かに、彼は栄光に輝くイエスの幻を見て、馬から転げ落ちたことがある。しかし彼の宣教の土台はその体験ではなく、旧約聖書のみことばだった(ローマ人への手紙15章21節参照)。パウロは、神の救いの計画の根幹は主の名を呼び求める人々を神のもとに招くことだと信じていたからこそ、宣教の未開の地に行ったのだ(ローマ人への手紙10章11~15節)。そして僕たちもパウロと同じ信仰をもち、同じ重荷を感じている。

では、どうして日本なのか?

まず、人によって答えは違ってくるかもしれないが、日本人は「福音が伝えられていない人々」として世界で一番目か二番目に大きな民族とされている。だから単純に、最も福音が伝わっていない人々がいる所、福音の素晴らしさを伝える証し人が最も不足している所へ行くことが相応しいと思ったからだ。日本の教会は、全体的に見て、キリストを伝え新しい信徒を自分たちで育てていくほどの規模を、まだ持ち合わせていない。もっと多くの働き人が必要なんだ。

これは他人事ではない。全く他人事ではない。真剣勝負なのだ。僕たちは何か目新しい、楽しい冒険を求めているのではない(もちろん楽しいことも待っているとは思うが)。イエス・キリストこそ、全てだ。

僕たちの人生から他の全てものが取り去られたとしても — お金、家、健康、家族、友人、インターネット — それでも僕たちはキリストにあって豊かであり続ける。でも、もしイエスが人生から取り去られたら、僕たちには何が残るのだろう?良いものがあったとしても、せいぜい数年もつだけではないか。日本の1億2600万人の人々が、このキリストを持っていないと思うだけで、僕は重荷を感じる。

僕たちはキリストを何よりも愛している。キリストは、愛し、信頼し、崇め、従うに値するお方であることを、僕たちは知っている。そしてそれは、どの民族や文化に属していようと同じではないか。

日本の人々にこの素晴らしいものを伝えるため、僕たちはほんの小さな役割を果たせたらと願っている。

キリストを知って欲しい。これこそが、真の「日本の喜び」であるから。