男気と、お金と、お仕事(宣教)の関係

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僕は、誕生日はドーナツで祝うと決めている。男らしくないと言われればそれまでだが、こだわりは男気のあることだと思っている。僕は、男らしさに関しては決してないがしろに考えてはいない。そのことを念頭に、今日の記事を読んでいただきたい。

僕が宣教師になることを考え始めたのは、今から9年ほど前のことだ。その時僕は、何とかしてその召しから逃れようとしていた。正直な思いを打ち明けると、宣教師の道を真剣に考えるに当たって、どうしても受け入れられないことが一つあった。それは、経済的保証が無いことだ。自分自身の生活費や活動費のために献金を募り、人に頼って生きるというのは、あまり魅力的なことではなかった…というより、はっきり言って嫌だった。

もしかしたら僕以外にも、宣教師になりかけたのに、お金を集めるという行為を恐れてその働きに足を踏み入れられなかった人も多いのではないだろうか。プライドというものがある限り、僕たちはできれば経済的に独立していたい。誰の助けも借りずに生活ができるなら、それが一番良い。

しかし言うまでもなく、神はこの僕の心に働きかけ、その考えを変えてくださった。そうでなければ、今僕は「献金をください」とアピールする日々を送っていないはずだ。今日は神がどのように僕の価値観を変えてくださったか、皆さんに分かち合いたいと思う。そして、僕と同じような葛藤の中にいる人がいれば、その人にとっての励ましにもなれば、と願っている。もっと多くの働き人が宣教地に遣わされて欲しい。どうか、献金を募ることを恐れるばかりに、人生をキリストに捧げるチャンスを先延ばしにすることがありませんように。

僕たちが正式に献金を募り始めたのは、3月のこと。その時から、僕は予想もしなかった祝福を経験していると、本心から言える。もちろんこの2ヶ月間は大変だった。しかし、その大変さは、想像していたものとは違っていた。

9年前、僕が献金を募るのを躊躇していた時に恐れていたのは、「物乞いのまねごと」をしなければならないことだった。僕が頭に描いていたのは、道端で小さく背中を丸めた男がおずおずと腕を伸ばして、か細い声でささやくような姿…。「もし、ご迷惑でなかったら、どうか、あの、すみませんが、お金か何か、いただけませんか」 というイメージだった。キリストのために働くのに、お金を必要とするなんて恥だ。そう思っていた僕は、献金を募ることにかなりの抵抗を感じていた。

でも現実は違った。献金を募るというのは毎日のコツコツとした仕事で、それが思ったより重労働なのだ。それはまるで、太陽が照りつく中で、1日2回サッカーの練習をこなすようなイメージ。しかも、9ヶ月ぶりの練習に出るような感じだ。ただひたすら、疲労困憊し、体はあちこち痛み、汗にまみれるような感覚だった。男くさいと言えば、その通りかもしれない。献金を募るというのは、男気のある、骨の折れる仕事だ。特に、フルタイムで仕事をしながら2人の子供の育児も加われば、なおさらだ。でも、やりがいはある。沢山の喜びと深い友情がそこにある。ロード・オブ・ザ・リングの「旅の仲間」のような、絆が。

最近、仕事をしながら宣教の働きをする人が増えてきている。このような傾向も、当然だと思う。「自立したビジネスを通して宣教に関われるなら、福音が伝わっていない地域へ行くのに献金が必要とは限らない。その地域に貢献できる仕事をして生活しながら伝道すればいいのでは?」というのが、その考え方だ。確かに聖書にもこのような前例がある。使徒パウロが、天幕作りをしながら自身の生活費を稼いでいたのは有名な話だ。

しかし聖書全体では、いわゆる「天幕作り」(宣教と仕事の両立)が決して一般的なやり方ではなく、むしろ例外に見える。僕は、宣教と仕事の両立が、福音を伝えるのに最も良いアプローチとなるのなら、是非選ぶべき選択肢だと思っている。しかしパウロでさえ、ほとんどの場合には他の信者たちのサポートに頼っていた(コリント人への手紙第二11章7〜9節、ピリピ人への手紙4章15〜18節参照)。

そして何よりも、この世でもっとも男気のあるお方、イエスも、人からのサポートに頼っていたのだ(ルカの福音書8章1〜3節)。宇宙一力を持ち、足りないものもなく、全てを支配しておられるそのお方が、人からの献金を受け取るほど謙遜になられたのであれば、「献金をもらうなんて恥ずかしくて…」なんて言っている僕は一体何者だ?

実は、僕たちも初めは英語教師として日本へ行くことを考えていた。しかし、自分たちの賜物・性格・状況を考えたとき、やはりフルタイムの宣教師として福音を伝えるのが一番向いているかもしれない、という結論に至った。

それさえ決意したら、その後は簡単だった。神のみこころのままに、キリストの弟子をつくる働きに自由に用いられるためには、経済的に独立する夢は自然と手放すことができた(そもそも完全に独立しているというのも単なる思い込みだったが…)。僕たちは喜んで、友人や家族が捧げてくださる献金に頼ることにした。その結果として、人々がイエス・キリストを知り、愛し、味わうことができるなら、それほど素晴らしいことはない!

そういうわけで、これが僕たちの現状だ。献金を募り初めて、2ヶ月。先ほど言ったように、とても大変な仕事ではあるけれど、良い類いの大変さだと感じている。人々に呼びかけて、共に「福音を広めることにあずかる」仲間となるのは素晴らしいことだ(ピリピ人への手紙1章5節)。自分の歩みについて証するたびに、僕はどんどん気持ちが高まっていくのを感じている。そしてそれは僕たちが日本で携わる働きに対してだけでなく、僕たちが愛する人々とその働きを共有できるという事実に、胸が高鳴るのだ。

神の恵みによって、皆さん一人ひとりの力でこの宣教の働きが実現する。実際に世界の反対側へ移住するのは僕ら家族だけれど、その犠牲を払っているのは僕たちだけではない。皆さんの犠牲があってこそ、できることなのだ。この捧げものに感謝します!

そして神の恵みによって、僕は今、恥ずかしさや男気の無さなど微塵も感じず、胸を張って「どうか、私たちの日本での宣教の働きに加わってくれませんか」とお願いすることができる。僕たちが欲しいのはお金ではない。僕たちが欲しいのは、それよりもっと大きなことだ。聖書には、「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」と書いてある(マタイの福音書6章21節)。

僕たちの宣教の働きに、皆さんにも関心をもって欲しい。そして、僕たちが行くことで、それまでキリストを知る機会が無かった人々に、福音をきちんと、真摯に語りたい。それが僕たちの求めていることだ。

これは、友人や家族の惜しみないサポート無しには、実現できない。むしろ、サポート無しでの実現は、求めていない。もし日本での宣教の働きに関わりたいとの願いがあり、まだ連絡をされていない方がいましたら、ぜひご一報ください。