福音が伝えられていない人々を放っておけない理由

何かに情熱を注いでいる人は、大抵それを誰かに知って欲しいという思いを持っているのではないだろうか。好きなスポーツチームのユニフォームを着たり、車の後ろにステッカーを貼ったりする。またある人は、行く先々 − 誕生日会、結婚式、葬式、どこででも − 政治議論を始めたりする。ソーシャルメディアの世界を利用する人も多いだろう。個人の差はあるとはいえ、自分が好きなものを周りにも伝えたいという願望は人の常のようだ。

C・S・ルイスは、称賛は喜びを完成させると説いた。人は周囲に自分の好きなことやその喜びを分かち合って初めて、自分の楽しみを満喫することができるのだ。もちろん例外もあるだろう。しかし、ほとんどの場合、僕たちは自分が大切に思うことは周りにとっても大切であって欲しいと願っているのではないだろうか。そんなことはない、自分は自分、人は人、と思っていても、もし自分の大切なものが否定されたら、少しは落ち込む(あるいは怒りを憶える)ことだろう。

しかしどれほど大切なものだとしても、それが一時的な興味に過ぎないのであれば、大したことではない。問題は、それが自分自身の存在意義を揺るがすほどの、人生において根本的なものだとしたら…。それを失ったら自分が誰なのかすら分からなくなるような、それほど大切なものだとしたらどうだろう。

イエス・キリストを信じるクリスチャンは、まさにそういうものを持っている。僕たちは「キリストの内に」存在しているからだ。もし、この内なるキリストが取り去られようものなら、同時に自分の存在も何もかもが無くなってしまうだろう。キリストはいのちなのだ。キリストから離れては、僕たちは何もできず、無に等しい。人がイエス・キリストの美しさ、愛、慈しみ、知恵、力、そして栄光を知る時、その素晴らしさを他の人にも知って欲しいと思うのは当然だし、知らない人がいたら伝えるべきだという重荷を感じるに違いない。僕たちは、全ての人がキリストの内にあるいのちを得ることを願っているのだから。永遠に続く、いのちを。

ここで例をあげてみよう。これは、僕が昔NGOで働いていた時に実際に起こった、悲しい話だ。

サハラ以南のアフリカ地域のへき地に、ある兄妹が住んでいた。記憶が正しければ、兄が5歳、妹が2歳だったと思う。この地域では珍しくないことだが、彼らは父親を知らず、頼れる肉親は母親だけ。しかもその母親はHIV・AIDSに感染していた。彼らが母親を亡くした時、彼らの世話をしてくれる者はもはや誰もいなかった。

突如家族を養わなければならなくなった5歳の兄は、幼い妹の手を引いて、家から家へと食べ物を求めて歩いた。しかし、母親の生きていた時からすでに栄養不良の状態だった2人の子供は、もうすでに体力が尽きていた。村のある女性はその様子を見て、食べ物を得るには隣町にある孤児院に行くしかないと彼らに勧めた。

ある牧師が運営していたその孤児院は、すでに飢えた子供たちで一杯だった。そのため、この兄妹がようやく辿り着いた時、牧師は心を痛めながらも彼らの頼みを断った。すると、とぼとぼと去って行く兄妹を見た年上の孤児が、自分の食べ物を彼らに分けさせてくれと牧師に頼み込んだ。その孤児は兄妹を探しに出たが、その時もう彼らの姿は無かった。牧師もまた、彼らを追い返した罪悪感から、その兄妹を探しに行った。しかし、彼らは見つからず、牧師は数日間自責の念に苛まれた。

それから2週間経ったある日、彼は溝に何かが横たわっているのを見つけた。彼は膝をかがめて、その遺体を抱き上げた。そこには、彼が追い返した2歳の少女の顔があった。その少女は痛ましくも、しかし当然のごとく、飢えで死んでいた。牧師はその後も、兄を見つけることは無かったという。

僕たちに同じ状況が訪れたとしたらどうだろう。僕たちは、何としてでもこの幼い2人の子供に食べ物を与えようと力を尽くすのではないだろうか。飢餓の問題と真剣に向き合っている人なら、世界中に飢えで命を落とす子供たちのことを思うと、たまらない気持ちになる。しかし、これが現実なのだ。統計では、毎日およそ6千~7千人の5歳以下の子供たちが飢えに関係する死因によって命を落としているそうだ。

しかしこのような悲しみや憤りを、同じくらい現実的でしかも永遠に続く悲劇に対して抱かないのは何故だろうか。最近の統計では、2億人もの人々がイエス・キリストのことを知る機会すら与えられていないそうだ。イエスはこう仰っている。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6章35節)

ヨハネの福音書6章を読むと、イエスがここで何を伝えようとしておられるかがよく分かる。人の身体が食べ物から得るものと、イエスが魂に与えるものは同じだ。生きるために食べ物が必要なように、永遠のいのちを得るためにはイエスが必要なのだ。人は食べ続けてもいつかは死ぬ。しかし、いのちのパンを食べる人は、永遠に生きることができる。飢えている人に食べ物を分かち合うべきなら、イエス・キリストのいのちを分かち合うことはその何倍も素晴らしいことではないだろうか。

このアフリカの兄妹の話は、現在世界にいる2億人の霊的な困窮状態を表していると思う。家から

家へと、真のいのちを与えるパンを探し歩いても、何も得られないままの人々。誰かが真の食べ物を与えない限り、彼らはやがて飢えてしまう。僕たちには、その働きをする機会が与えられているのだ。彼らがその必要に気付いているかどうかは別として、僕たちはすでにその真のいのちを持っているではないか。そのいのちとは、イエス・キリストだ。このお方を、僕たちは愛している。このお方こそ、全てなのだ。このお方の内に豊かに与えられている全てのものを、他の人と永遠に分かち合いたいと願うのは、ごく自然なことではないか。

だからこそ、僕たちは福音がまだ伝えられていない人々を放ってはおけない。

だからこそ、神のみこころならば、僕たちは行くのだ。

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