二度目のプロポーズ

前回のブログでは、キャサリンが彼女の物語として、日本に行くと決意するまでに神がどのように働かれたかを綴ってくれた。反響は大きく、今まで書いたどのブログ記事よりも沢山のコメントや質問をいただいたので、今日は少し詳しい背景を付け加えようと思う。

この5年の間に、僕たちが家族として日本へ行くのが神のみこころだとはっきり示された出来事がいくつかあった。その一つは、2013年6月15日のことだ。僕(ジェイミソン)がキャサリンに手紙を書いた日だ。彼女はこの手紙を、「二度目のプロポーズ」と呼んでいる。今回、その一部をここで分かち合ってほしいと彼女が願っているので、そうしたいと思う。

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僕たちが付き合っていた頃、婚約を目前に僕が葛藤していたのを憶えているだろうか。僕は君を妻として迎えたかった。と同時に、宣教への召しも感じていて、君は僕とその道を歩むことに確信を持てずにいた。何ヶ月も祈り、考え抜いた末に、主は宣教への召しを上回って、結婚への召しを強く示しておられると僕は感じた。世界に福音を伝えるために僕を送り出すことより、神は、君との結婚を促しておられるという確信が与えられたんだ。

そして、結婚してから3年が経った今、主はあの時僕を正しい決断に導いてくださったのだと、日々感じている。君を妻と呼べることは、僕にとって何よりもの幸せだ。

では宣教の召しは消えていったのか?僕の宣教への重荷も薄れていったのだろうか?そんな訳はない!主は今も、僕を — 僕たちを — 福音が伝えられるべき地での宣教の道へ、導いてくださっていると信じている。

むしろ、時が経つにつれて僕の確信は強くなっている。神は扉を開き、僕の心に宣教に行く願いと思いを与え続けてくださっている。僕の決意が揺らいで諦めそうになった時も(ここ数年でそういう時期が沢山あったが)、神はその度に宣教への情熱を新たにされるんだ。

一体どんな未来が待っているのか、僕には分からない。一家の主人として、僕は家族が主のみこころに従うように率いる責任がある。どのような結末になっても — 生きるにしても死ぬにしても、不安があっても落胆があっても。

主イエスが僕たち家族をどう導かれるのか分からないが、楽な人生に導こうとされていないことだけは、確かだ。主ご自身が十字架を背負い、苦しみ死なれたように、僕たちも自分たちの十字架を背負いなさいと、主は命じておられる。

もしかしたら、献金を募るのに何年もかかり、結局移住にすら漕ぎ着けないかもしれない。もしかしたら、僕たちが宣教師として送られたところで、世間の目からは完全に「失敗」に終わるかもしれない。もしかしたら、何十年も日本で奉仕しても何の実りも見ることができないかもしれない。

しかし、もしかしたら、僕たちが従い進むことで、多くの人が死からとこしえのいのちへと移されるかもしれないんだ。

僕は預言者イザヤになった気分だ。くちびるの汚れた者が、くちびるの汚れた民の間に住む。僕たちには神の代弁者となる価値はない。しかし神は、汚れたくちびるを聖め、価値のない者を整えられる。そして、送り出してくださるんだ。宣教の働きにおいて最も大きな妨げとなるのは、知識や能力の欠如ではない。全てにおいて、主イエスへの完全なる信頼が欠如していることこそ致命的なんだ。

僕は日本へ行くなら、自信に満ちた妻よりも、「イエス様、あなたが必要です」と言うことができる妻と共に行きたい。キャサリン、僕たちはキリストにあって、できないことはないはずだ。だからこそ、

神は僕たちを共に送り出したいと願っておられると、信じている。

神は君に、福音を知らない人にイエスの名を知らせるための知識と、経験と、器用さと、賜物と、また思いを与えてくださった。それでもなお、君はその働きにふさわしくないと感じている。僕はむしろ、それが正解だと思うんだ。君は自分の弱さを知っている – 素晴らしいじゃないか!今こそ、主から力を受けて自分自身を捧げる時なんだ。

僕は君がためらっているからこそ、自分自身の自信過剰さにも気付かされたし、自分の持つ弱さをもう一度見つめ直すことができた。そのことを僕は本当に神に感謝している。僕も、この働きにふさわしくない。君がいなければ、僕はそのことに気付くことすらできなかった。

キャサリン、どうか、僕に付いてきてくれないか。一緒に行こう。

せめて、行けるように全力を尽くそう。その上で道を開かれるかどうかは、主のなされることだ。

でも、行かせてくださるのなら、行こう。

多くの犠牲も伴うことだろう。でも手放すことは苦ではない。何を失ったとしてもいい。失うことは、キリストを得ることなのだから。

主は僕たちを送ろうとしてくださっている。どうか、僕を信頼して欲しい。いや、それよりも、どうか、神の完全なる導きと守りに信頼して欲しい。神は必ず僕たちと共にいてくださり、僕たちの前を歩んでくださる。

「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」(詩篇23篇6節)

僕たちはこの地上でどこに住まおうと、主はとこしえに共に住まわってくださる。君が神と救い主を失うことは、絶対にないのだから。

「年月はなんと早く過ぎ去るものだろう。

人がその人生で与えられた期間を終えたその時、

この世の栄光は、もはや夢や思い出としてしか残らない。

幸いな人よ、とこしえに、地上のいのちと天上の永遠なるいのちの価値を正しく見極めることができる者は。

地の栄光は空しく、天の栄光は輝きわたる。」 − サミュエル・ラザフォード