戦うことを学ぶ

過去に賢人がこう言った。「誰もが作戦を持っている。パンチを食らうまでの話だがな。」 おっと、待てよ。これはマイク・タイソンの言葉だ。賢人ではないか。しかし少なくとも、戦いについては熟知している男だろう。

僕たちがサポートチーム形成を始めてから、先週でちょうど1年が経った。初めの8、9ヶ月は計画していた通りに全てが順調に進んでいたが、その後僕たちはパンチを食らったのだ。

そう簡単にいくはずがないと、分かっていた。でもこんな犬の喧嘩のような、醜い戦いが待っているとは思っていなかった。おそらく僕は、無意識のうちに、今の宣教への準備段階は登山のようなものだと思い込んでいた。多くの労力を要するとしても、山は動くものではない。自分さえしっかりして努力すれば、必ず達成できるはず…そう思っていた。しかし、動かないと思っていた山は、実は違った。山は拳を振りかざしてきたのだ。最近はまるでボクシングの試合のような、それもクリーンとは言えない戦いになってきた。ボクシングで言えば耳をかじる反則がでるような、そういった類いの戦いだ。そしてこのような状況を、僕たちは予測しておくべきだったのだ。

「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に付けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。」(エペソ人への手紙6章10~13節)

僕は悪魔が期待しているような称賛を与えるつもりはない。彼らはすでに戦いに負けていて、その戦いも時間の問題で解決するのだ。しかし、今現在、彼らはそれでも攻撃を仕掛けてくるし、やがて滅ぼされると分かっている分、すでに勝利している救い主に更に強く反撃するのだ。彼らは主イエスを嫌っているので、イエスの御業を妨げ、イエスに属する者を引きずり降ろそうとする。分かっているはずなのだが、僕は未だに登山のつもりで構えてしまい、突如それが戦いに変わる度に悪魔の攻撃に驚き慌ててしまう。

このような戦いにまさに相応しく、エペソ6章にある使徒パウロの有名な言葉は、「立ちなさい」という言葉で始まる。この命令には、手紙の他の箇所とは違った姿勢が感じられる。言うなれば、防御から攻撃への切り替えだ。

この箇所まで、パウロは何度も「歩め」と教えている。神の恵みによってキリストによる救いを得るまでは、私たちはこの世の流れに従い、人の敵である不従順な霊に従って歩んでいた(2章2節)。しかし神が私たちを死からいのちへと移した時、その歩みは変えられ、もはやむなしい心で歩むことはなくなったのだ(4章17節)。代わりに私たちは、良い行いをし(2章10節)、召しにふさわしく(4章1節)、キリストの愛のうちに(5章2節)、光の子供らしく(5章8節)歩むようにと勧められている。そして、そんな私たちは賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意する必要がある(5章15節)。

神による救いは、父なる神が定め、子なる神によって代価が支払われ、聖霊なる神によって保証された。その素晴らしい救いの光の中を、その恵みにふさわしく歩む人生がクリスチャンの人生なのだ。そしてパウロは、こうして歩む人生には敵対する勢力が付き物だと警告している。クリスチャンの歩みは、湖のほとりをゆっくり散歩するような歩みではなく、兵士の行進なのだ。信仰者は常に武装していなければならない。そしていつ何時、火矢が飛んできても良いように、しっかりと立っていなければならないのだ。

僕たちにも不意に火矢は飛んできた。ここ数ヶ月、僕たちは今までにない体調不良が続いた(キャサリンの癌のことに加え、日本について証する機会が与えられる度に僕たちは体調を崩していた)。いつになく物事が順調に進まなくなり、すぐに気持ちも落ち込んでしまう。僕たちは初めて、まるで何か、または誰かが、僕たちが日本に行くのをあからさまに邪魔しているように感じた。しかし妙なことだが、その事は僕にとってむしろ大きな励ましとなった。それはきっと僕たちが正しい方向に向かっているというサインだと思ったからだ。

私たちの神は強いお方だ。だから、恐れることはない。神の教会はハデスの門にも打ち勝ち、福音はあらゆる国民、部族、民族、国語に宣べ伝えられ、一つに集められると神は約束してくださった。神は国々の間であがめられ、地の上であがめられる。神は僕たちを一人で戦わせるようなことはされない。僕たちは神ご自身がその戦いを戦い、僕たちを守り、力を与え、送り出してくださると信頼することを学ばなければならないのだ。どうか、この神の御業をもっと見ることができるように、祈っていただけると幸いです。

「では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。」(エペソ人への手紙6章14~19節)