小さな教会、小さな子供たち

小さい教会。僕は最近、神を信じる人のごく小さな集まりは、この世で最も素晴らしく、そして知られていない宝物の一つだと感じている。小さな教会は砂に埋められたダイヤモンドのようだ。なかなか見つからないが、探す価値はある。おそらく何千人もの人が近くにいながら、その価値に気付かずに通り過ぎていってしまっているはずだ。

もちろん、小さければ良い教会というわけではないし、大きいから悪い教会とも言えない(僕たちの教会は大きい方だと思うが、本当に素晴らしい教会だ)。しかしあえて僕が小さい教会を取り上げたいと思ったのは、その信仰と神を敬う姿に見合わず、注目されることが少なすぎるからだ。事実、特に福音の伝えられていない地域の教会は、小さい教会がほとんどだ。日本の教会の平均人数は30人前後だと聞いているし、それより小さい教会も見たことがある。

大きければ目立つし、注目される。サイズなり、インパクトなり、とにかく大きなものは何でも話題になる。僕たちは気付かないうちに、教会の価値などをその規模で測ってしまっているように思う。ついこの間、地域のイベントである牧師と会った。後日そのことを知人に話すと、彼はこう言った。「あの先生に会ったの?すごいね!あの先生の教会には5千人もいるんだよ。」

裏を返してみれば、僕たちは何にしても、例えば教会でも、規模が小さければそれほど重要ではないと断定してしまいがちだ。牧師や宣教師たちが、「私の教会には○○人しかいない」と嘆いているのをよく耳にする。数が少ないと気を落とすのは分からないでもない。しかし、誰にも気付かれなくても、イエス・キリストを賛美するために集い、神のみことばを語り、互いに励まし合い、弱っている人を助け続けている小さな集まりは、もっと称賛を受けるべき存在ではないだろうか。彼らは決して人の注目を集めるためにそうしているのではない。彼らは人から認められなくても、天で主の称賛を受けるのだ。神は誰も見ていないところで行われることを尊ばれる。

イエス・キリストはフィラデルフィヤの教会にこう告げている。「わたしは、あなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」(黙示録3章8節)

この箇所について、ジョージ・エルドン・ラッドはこう書いている。「フィラデルフィヤの教会は良い行いをし、主の目にかなっていた。教会は小さく、影響力も決して大きくはなかったが、その品性は素晴らしく、非難ではなく称賛の手紙を受け取った唯一の教会であった。」(「A Commentary on the Revelation of John」 [ヨハネの黙示録注解書]より。)

黙示録では他にも手紙を受け取った教会が出てくるが、それらが全て戒めの言葉を受けたのに対して、フィラデルフィヤの教会は唯一主が褒められた教会だった。彼らに力や影響力は無かったが、主は彼らを喜ばれたのだ。主は、当時の権力者を彼らの「足もとに来てひれ伏させ」、主ご自身が彼らを「愛されていることを知らせる」とまで約束された(9節)。

彼らは、社会の中では取るに足らない小さな存在だったかもしれないが、神の国においてはより偉大な、永遠に続く権威を約束されていたのだ。「勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。」(12節)

信仰には必ずしも教会の人数や社会への影響力が伴うわけではない。それとは関係なく、信仰は主に喜ばれ、天において報いが与えられるのだ。僕たちの宝は天に積まれているはずだ。

宣教について学んだ人ほど、日本は世界中でも収穫を見るのが難しい国だと言う。何千人もの宣教師と日本人の働き人が、目に見える収穫が少ない中で信仰をもって働いてきた。この国のリバイバルを祈るとともに、必ずしも他の国で見られるのと同じリバイバルが起こるとは限らないことを理解した上で、僕たちは前に進む。もしかしたら、僕が生きている間に状況が変わるかもしれない。日本のクリスチャンの中にも、その希望を抱いている人はいる。

でもそうはならなかったとしても、僕たちは日本の素晴らしい、小さな教会で奉仕をしていくことを神のみこころとして受け入れ、忠実にそれを成し遂げたいと思っている。小さい教会は周囲に与える影響力も弱く、そのコミュニティーからの認識も薄いかもしれないが、僕たちは喜んで彼らと共に仕えたいと願っている。僕たちが仕えているのは、天において報いてくださる主なのだから。


最後に、子供たちの様子。

エズラとバイオレットの写真です。彼らが皆から愛されていることに感謝。写真を載せて欲しいとのリクエストがあったので、ここで紹介します。

ちなみに、ここには子供たちの笑顔の写真ばかり載せているので、日常がいつもこんな調子ではないことを忘れずに。不機嫌にわめきちらしている写真やオムツを替えている時の写真があったら、それもぜひ載せたいところだが、写真を撮る余裕のある時というのは、大抵子供たちが満足気にニコニコしている時で、どうしようもなく泣き喚いている時とかヨーグルトまみれになっている時などはカメラなんて持っていられない。子供たちのことは大好きだ。そしてそれは彼らが可愛く笑ってくれるからではなく、僕たちの子供だから。

神が与えてくださった子供たち。感謝しています。

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