福音が伝えられていない人々に伝えるには

前回のブログでは、福音が伝えられていない人々を放っておけない理由について書いた。そして「福音が伝えられていない人々」の中でも、僕たちが特に重荷を感じているのは、日本人だ。

日本で宣教が必要とされているという現実は、多くの人にとって驚きのようだ。クリスチャンによっては、宣教の働きというとボランティア活動と同義語のように扱う人もいる。孤児院の運営や地域医療への貢献、もしくは井戸の掘削、災害現場での救援活動などが、宣教師の典型的なイメージとなっているのではないだろうか。日本は先進国なのに、どうして宣教師が必要なのか?この疑問に答えるために、僕は前回のブログを書き、今回はその続きを書くことにした。

僕たちがボランティア活動を良く思っていないという訳ではない。この狭くなった世界において、貧困国のために知恵を絞り尽力することは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」というみことばに従う一つの方法だと僕(ジェイミソン)は信じている。ただ僕が気になるのは、クリスチャンが関わっている多くの活動は、クリスチャンにしかできないことではないということだ。クリスチャンでない人も当然同じことが出来るし、場合によってはより良い活動をしていると言えるかもしれない。

では、クリスチャンの宣教活動にしか無いものは何か。それは、イエス・キリストだ。クリスチャンによる宣教の働きとは、キリストを知らない人々にキリストを伝え、キリストを崇めていない人々にキリストを崇めるよう招き、キリストに従っていない人々に信仰による従順を教え、キリストを愛していない人々に愛なるキリストを伝えることなのだ。

聖書のことばによると、こう書かれている。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28章19~20節)

これは今に始まったことではない。この宣教命令が与えられたのは2千年前。それ以来、神の民たちはこの命令に従ってきた。しかし時に、歴史は人の愚かさを示している。イエス・キリストが世界の終焉までに信仰者に託されたはずのこの使命が、クリスチャンたちの間で見失われがちであることは否めない。

でも、勘違いしないで欲しい。僕は、宣教の働きの現状を嘆くためにこれを書いているのではない。神は必ずこの世界で果たされるべき御業を、地上の人々の間で必ず完成させてくださると確信を持っている。最近の礼拝でも、このテーマについて語ったところだ。僕たちには必ず成就される約束が与えられている。それは、主ご自身が、あらゆる部族、国語、民族、国々から、自ら礼拝者を集められること。主がご自身の教会を立てられ、ハデスの門(マタイの福音書16章18節)もそれに打ち勝てないこと。主ご自身が重荷を持ち、地の果てからも罪人を救い出してくださること。これら全ては、主がしてくださる。まさに今も、主が働いておられる。

神ご自身こそが、自ら福音を知らない人々のところへ行き、ローマ人への手紙10章13~15節のようなみことばを成就してくださるお方なのだ。「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです。しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。」

福音を知らない人々にキリストの名を伝え、弟子へと育てていく働きは、実際に行って宣べ伝える者と、彼らを送り出す者とに託された。これは神の知恵によるものだ。僕たちにはこの使命を回避することはできない。主は宣教命令を与え、ご自身の力でそれを成し遂げられると約束された。しかしその実現は、僕たちのように弱く劣った者が、皆さんのような人々に送り出され、福音を語る時に果たされるのだ。神はこのようにして、福音を地の果てまで伝えると約束された。

そして、これだけではない。P.T. オブライエン著「Gospel and Mission in the Writings of Paul(パウロ書簡における福音と宣教)」から引用すると、こう書いてある。「福音を宣言するということは…初めて聞く人に説教を語り改心者を多く起こすことだけではない。あらゆる方面において、しっかりとした教会を立て上げるために、育て、鍛える活動も、それに含まれるのだ。」(43ページ)

新しい改心者を起こすことだけでなく、その地域で教会となる群れを立て上げていくこと。これこそが、クリスチャンの宣教活動の特徴と言えるだろう。キリストのもとに近づくことは、キリストのからだの一部となり、またその地域のからだ(教会)の一部になることなのだ。

前に言ったことに戻るようだが、クリスチャンの宣教活動にしか無いもの、それはイエス・キリストだ。そして、イエス・キリストは人間を通してご自身を現される。つまり僕たちの目指すべき働きは、福音が伝えられていないところで福音を語り、そこでイエス・キリストが目に見える形で現されるように、地域教会を立て上げることなのだ。

今の時代、控えめに言ったとしても、教会は不完全だ。もっとはっきり言えば、教会は明らかに欠陥だらけだ。しかし、それと同時に、僕たちは教会の美しさを無視してはいけない。本来、教会は、キリストの花嫁なのだ。知恵ある者は人の妻を悪く言ったりはしない。主は教会のためにいのちを捧げることを惜しまれなかった。そして今は、ご自身の教会に住まわれ、その内に働かれることを惜しまれない。もしあなたも、多くの人がイエス・キリストを知り、その恵みを体験することを願うなら、世界の国々で教会を立て上げる働きにぜひ関心を持って欲しい。

そして、もしあなたが世界の貧困に重荷を感じているなら、ぜひ教会開拓の働きにも関心を持って欲しい。教会がなければ、どこでイエス・キリストを見出すことができるだろうか。主はあわれみ深く、病を癒し、汚れをきよめ、盲人の目を開き、悪霊を追い出し、死に打ち勝ってくださる。イエスほど、貧しい人を愛した方がいただろうか。イエスのように、貧しさに救いを与える力を持つお方はいない。豊かな人であろうと、貧しい人であろうと、誰もが主イエスを何よりも必要としているのだ。

そして、イエスは神を愛する人々の内に住まわれ、彼らを通して、特別な方法でこの世界に働きかけてくださる。つまり教会開拓も、寄り添いの働きと言えるだろう。究極の救援活動、かもしれない。この働きを通して、人々がキリストのもとに近づき、キリストの愛を受け、彼らの救い主によって必要が満たされるならば、それほど素晴らしいことはない。

僕は日本の国に、イエス・キリストが現わされる教会 − 健康的で、外に目を向け、キリストをほめたたえる教会 − が満ち溢れたらと願っている。そしてその場所が、絶望の内に生きる日本の人々が逃げ込み、何百万人もの引きこもりの若者たちが恥から解放され、毎年自殺する3万人もの人々が死の代わりに希望を見出せる場所となるようにと、祈っている。

もしあなたも同じ願いを持っているなら、僕たちが働きを共にするCBIのことをここでより詳しく知ることができます。さらに、僕たちの日本での働きについてはここを読んでください