最近、11日間のコロラド生活から戻ってきた。コロラドでは、初めの週はワールドベンチャー本部で行われた出発前トレーニングに参加し(前回のブログ参照)、次の週はワールドベンチャーで毎年行われる「リニューアルカンファレンス」に参加した。カンファレンスには、世界中からあらゆる段階にいる宣教師たちが集まっていた。宣教の働きに向けて準備中の人、一時帰国中の人、退職した人、本部で働く人など、様々だ。僕たちにとっても、多くの交わりの中で、祈り合い、賛美し、学ぶ、とても良いひとときとなった。疲労感もあるが、清々しい気分でもある。子供たちが風邪をひいていたので、ホテルの部屋で5泊するのは本当に大変だった。しかし、他の部屋に宿泊していた方たちが主にあって助け励ましてくれたので、僕たちは有り余るほどの恵みも経験した。
僕の友人に、昔、雨の中でバーベキューをした人がいる。その時焼いていたソーセージは真っ黒に焦げ、ずぶ濡れだった。せっかくのソーセージを完全に無駄にしたわけだ。今回の旅が始まった時、僕はそのような気持ちだった。燃え尽き、惨めな気持ち…。疲れきって、頭が働かない。最悪だ。しかし、この2週間の間に体験した疲労感と励ましは、不思議に互いが絡み合って、日本へ行くことに新しい期待と新鮮な気持ちを産み出した。僕は改めて主が確かに働いておられ、あらゆる国の人々をご自身のもとに引き寄せられている、と実感している。
僕が小学校に上がる前の夏、僕たち家族は今の実家となる家に引っ越した。現在その家は売りに出しているものの、僕の両親はまだそこに住んでいる。長年住む間、彼らは少しずつ家を改装していった。正面の玄関前にある小さな庭も、その一つだ。もともとは平らなコンクリートで、雨が家の中や土台に流れ込まないように外側に向けてわずかな傾斜がついていた。今そこは、タイルが敷き詰められている。
僕はそのコンクリートで固められた玄関口を、今でも鮮明に憶えている。なぜなら、僕は小さい頃から、ほんのわずかな意識の中で、ずっとそれを観察していたからだ。玄関の鍵を両親が開ける間、僕の目はいつもその家の細かい変化を見ていた。ある時、僕は蛇口の下に小さな茶色のシミを見つけた。それは蛇口から滴り落ちる、鉄を含んだ水滴のシミだった。僕は子供の頃、その茶色いシミを何千回と見ていた。
それから長い間、おそらく10年程経った頃だろうか、そのコンクリートの傾斜についた茶色いシミが、大きくなってきているのに気が付いた。それだけでなく、何年にも渡って水滴が落ち続けたその場所は、コンクリートをすり減らすほどにまでなっていた。小さなヒビ割れが徐々に大きくなり、ついに穴があいた。ある日、忘れもしない僕が10代の時、学校から帰ってくるとコンクリートに亀裂が入っていた。あの茶色いシミは、真っ二つに割れていたのだ。その裂け目からは、土が見えた。驚くことに、すでにそこには、緑が生えてきていた。
それから間もなく、とどめの一滴でついにコンクリートは完全に割れてしまった。10年以上落ち続けた水滴 − おそらく何百万回もの水滴 — が、道を開いたのだ。割れてしまったコンクリートを取り除くと、それを待っていたかのように、命が芽生え始めた。
日本は宣教師にとって非常に困難な場所だ。物質的にではなく、霊的に。そのような言葉を、僕たちは何度聞いたことだろう。日本はある意味では「オープン」な国だ。というのは、クリスチャンが宗教活動のビザを持って入国することができるのだから。しかし、別の意味では「閉ざされた」国でもある。これは、日本に住む人々は福音のメッセージに耳を傾けないからだそうだ。僕たちが日本で、公然とした迫害や拒絶を受けることはおそらく無いだろう。しかし、僕たちがメッセージを語っても、相手が素っ気なく、無関心な反応を示す可能性は多いにある。コンクリートのように、堅い心で神を拒絶するその実態は、あらゆる形で現れている。
だが先週のカンファレンス以来、神はいつの日か、聖霊の力によって、その日本の堅い心を打ち砕いてくださるという確信が僕の内に芽生えている。世界には、神が大きなハンマーを振りかざすようにして福音のメッセージが伝えられている所もある。福音が語られ、コンクリートの心があっという間に粉々になり、そこには実りの多い地が待ち構えている。
しかし日本のような国では、神は静かに、忍耐強く水滴を落とし続けるようにして、働きかけてくださっているように思う。そしてきっといつの日か、最後の一滴が地に落ちる日が来るのだと、僕は信じている。その時、コンクリートはついに割れるのだ。堅く閉ざされた日本で長年仕えてきた働き人は、そこに豊かな土地があるのを見て驚くことだろう。神は、日本人の内に、何か新しい御業を成されるのかもしれない。
僕が日本に抱いている祈りは、まさにこれだ。もしかしたら、もうすでに始まっていて、新しい命が芽生え始めているのかもしれない。もしくは、僕たちはその何百万回の水滴の一つとして、ほんの僅かな跡を残し、後に続く者に道を備えるだけの役割に過ぎないのかもしれない。そうなった場合、それは意味のないことだろうか?他の場所に行く方が良いのだろうか?いや、僕はそうは思わない。そう思わないからこそ、僕は大きな励ましを受けて、カンファレンスを後にしたのだ。
僕たちはこの2週間の間、福音がまだ届けられていない世界中の困難な場所で、信仰をもって忠実に仕えてきた宣教師たちの話を沢山聞くことができた。ある人の結んだ実は多く、ある人は少ない。しかし一様に言えることは、誰の働きも決して無駄にはなっていないということだ。彼らの人生は、今までも、これからも、豊かに用いられるだろう。
僕たちの家族もそうなるようにと、祈るばかりだ。信仰を持って地を耕し、種を蒔く。たとえ多くの収穫が望めなくても。いや、それは誰にも分からない。もしかしたら、主は驚くようなことを、僕たちの人生に与えられるかもしれない。少なくともそれを期待する価値はありそうだ。