トレーニングの一貫として、僕は最近「Third Culture Kids(第三文化の子供たち)」という本を読んだ。この本は、エズラやバイオレットのように、両親と異なる文化の中で育つ子供たちが経験する恵みと試練について書かれたものだ。
本を読み終える頃、僕は頭を抱えていた。「自分の子供たちにこんな苦労をかけるなんて、僕は一体何を考えているんだ?」 簡単にまとめると、この本には第三文化の子供たち(略してTCK)は結局どこにも馴染めない、という実例ばかりが詰まっていた。この本によると、彼らはどこに行っても、よそ者で他人となるらしい。
成長過程の大半を日本で過ごしながら、アメリカのパスポートを持ち、家では英語を話す子供たちにとって、一体どこが「ホーム」となるのか?
もしその子供が一時帰国などでアメリカの学校に戻ることになった時に、日本語で勉強する方がむしろやりやすいと感じたらどうすれば良いのか?
僕たちの金髪の息子は、日本のどこに行っても目立ってしまうことをどう思うだろうか?
アメリカの家族との集まりにも加われなくなる現実に、僕は充分な覚悟ができているだろうか?
学べば学ぶほど、馴染みのない文化の中で生きる苦労から、エズラとバイオレットを守らなければという考えで一杯になる自分がいた。子供たちは大切だし、まだ幼いのだ。僕はそんな可愛い子供たちを、TCKとして生きる大変さから守ってあげるべきだとしか思えなかった。
しかし、主は恵みをもって、僕の視点を変えてくださった。子供たちを壊れもののように扱うのではなく、武器にもなりうる存在として見ることはできないか、と。
確かに、このバイオレットの目を見ればその可能性もなくはない。
詩篇127篇4〜5節
「若い時の子らは、まさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。」
もちろん、親が子供を守るのは良いことだし、神も喜ばれることだ。例えば僕はいつも、エズラがバイオレットをぬいぐるみのように床中引きずり回すので、やめなさいと注意している。でも守ると同時に、子供たちが将来、自由に羽ばたけるように育てるのも大切だ。僕たちの子供たちは小さくて、かよわくて、可愛い。しかし彼らは、悪の力にとって脅威となりうる存在でもあるのだ。
僕たちは、神がエズラとバイオレットをも信仰へと導いてくださることを期待し祈っている。そして日本に行くことで、彼らが日本の言葉や文化を学び、その経験が用いられ、多くの人が神を信じるようになれば素晴らしいことだ。
僕たち家族は、この働きに根を下ろすと決めた。これは、多世代宣教だ。この世界に幼い子供たちを解き放とうと思う。どうか私たちのためにお祈りください。