魂を生き返らせる

ここ数週間、我が家は辛い時期を通っていた。とは言っても、何かとてつもなく難しい問題があったわけでもないから、「試練」という言葉を使うと大袈裟に聞こえるかもしれない。忙しかったのは確かだ。風邪もひいたし、睡眠不足だった。でも、一番の問題は、僕たちの心の中にあった。

状況が悪い時、それだけでも試練と呼ぶことができる。しかし僕たちが罪人として歩んでいる限り、どんな状況でも試練になりうるのだ。そういう時は、自分自身の心が試練となる。人間の心は歪み、自己中心的な欲望や期待が満たされないまま渦巻いている。あげくの果てには子供のように駄々をこね、自分を棚に上げて周りの人に八つ当たりをする。ママが尖ったナイフをくれないからといって、赤ちゃんが泣き叫んでいるようなものだ。今、そういう類いの試練を僕は通っている。

こんな内容をここに書いているのは、我が家、特に僕(ジェイミソン)のために祈って欲しいからだ。忙しさを罪の言い訳にするという愚かな真似はしたくない。今この時期忙しいのは、キリストのために僕たちがそう選んだからだ。僕が求めているのは、ゆっくり休める時間ではなく(毎週休める時間は与えられている)、それとは違った安息だ。僕が欲しいのは、神を愛し人を愛することに僕の心の焦点を合わせ直してくれる、安息だ。

僕たちはいろいろな試練を経験する内に、自然と、より複雑な方法で解決しようと躍起になってしまいがちだと思う。クリスチャンとしてよくあるのは、難しい状況にある時に、今まで試したことのない新しい何かに頼ろうとしてしまうことではないだろうか。しかし僕は、それとは全く反対のアプローチをとることが、一番の近道だと分かった。

「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ…」(詩篇19篇7節)

神様、みことばを感謝します!聖書という本は本当に素晴らしい。そんなことは、もちろん今初めて気付いた訳ではなく、今までの人生の中で経験を重ねて何度も何度も実感していることだ。そしてまた今回も、聖書のみことばに立ち返ることで僕の魂は生き返った。

神のみことばは完全で、確かで、正しくて、純粋で、聖くて、真実で、公正だ。金よりも麗しく、蜜よりも甘い。魂を生き返らせ、知恵を与え、心を喜ばせ、悟りを与え、とこしえまで朽ちることがない。

神のみことばこそ、僕たちが必要としているものだ。

献金を募る日々の忙しさの中で、神が聖書を通して私たちにいのちの息を吹き込んでくださるよう、どうかお祈りください。詩篇19篇のみことばをそのまま祈りに変えていただいても幸いです。

この記事の初めに戻るが、我が家は最近辛い時期を通っていた。しかし、とても喜ばしいこともあった。神のみことばが聖霊の力によって働いた時、本当にそこに書かれていることが起こる。魂が生き返るのだ。「幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」(ルカの福音書11章28節)

そして子供たちのために、特に祈っていてください。彼らが大きくなって、神を知らない人の間に住む時、彼らが「主の律法を調べ、これを実行し、…おきてと定めを教えようとして、心を定める」ことができるように(エズラ紀7章10節)。