二歳の息子が教えてくれたこと

エズラは芝刈りが大好きだ。歩き始めた頃からずっと、好きだった。初めはオモチャの芝刈り機を押していたが、今は、立派に本物の機械を押して歩いている。芝生の背が高くなると、息子の胸も高鳴るのだ。

エズラは僕の顔を見て、物知り顔でこう言う。「パパ、芝生がと~~っても伸びてきたよ。芝刈りしようかな。一緒にやりたい?」

彼はガレージのドアを開けるのを手伝い、落ちている石ころや木の枝を拾うのを手伝う。芝刈り機にガソリンを入れるのを手伝い、気化器のボタンを1、2、3、と押すのを手伝う。それから、少し後ろに下がって、僕がコードを引くのを見守る(少なくとも5〜6回)。やっと、動き出した!僕は顔を上げて、エズラを呼ぶ。僕が一番好きな瞬間だ。エズラは期待に溢れた笑顔で、パパと一緒に芝刈り機のハンドルをしっかりと握る。

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僕が一人で芝刈りをすると、大体20〜25分で僕たちの庭とお隣さんの庭を仕上げることができる。エズラが一緒だと、45分ほどかかってしまう。でも、その時間は1分も無駄な時間とは思わない。一緒にすることに、意味があるのだ。

この間、僕はあることに気がついて、改めて神の前に謙遜な思いにさせられた。僕が芝刈りをするのにエズラの助けは必要ないように、神も、神が望まれることをするのに僕の助けなんて必要ではない。神は何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はない。神は全ての業において、十分な力を持っておられる。僕たち抜きでも、神の御業は成される。しかし、神はあえて人の手を使うことを選ばれるのだ。

ローマ人への手紙10章にはこう書いてある。

「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです。しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。』」(13〜15節)

この箇所から、次のことが学べる。宣教師と、彼らを送り出す人々は、イエス・キリストをまだ知らない人々を救うために神が任命された器である。これは、たとえ世の中がそのように意識していないとしても、素晴らしいことではないだろうか。

神は、どうしてこのようになされるのだろうか?もっとスムーズで効率的なやり方があるはずではないか?

例えば、瞬間的に、この世界の全ての人のもとに天使を送り、福音を語らせることもできるのではないか?僕たちの口から聞くより、天使が語る方がみんな耳を傾けるかもしれない。もしくは、聖書で見られるように神が直接天から語りかけ、「イエスはわたしの愛する子だ。彼に聞き従いなさい!」と命じることもできるのではないか?

このような疑問に対して、答えはきっと沢山あると思う。実際今僕がこれを書いている間にも、既にいくつもの答えが頭に浮かんでいる。

しかし、最近ハッとさせられたことがある。僕がエズラに芝刈りを手伝って欲しいと思っているのは、早く仕上がって効率的だからではない。実際はその反対なのだから。それでも一緒にするのは、エズラが色々な仕事を通して強く成長する過程を、彼と共有したいからだ。

いつか、エズラは大人になって、男として家族や近所の人のために力を尽くさなければならない。芝刈りは、そのような人格を育てるための一つの訓練だ。それと同時に、エズラはパパのようになりたいと思っているから、芝刈りが大好きだ。パパの仕事を真似するのは、エズラにとって喜びだし、パパが一緒にしてくれるならなおさらだ。

宣教の働きも、これと同じではないだろうか。神は失われた魂を見つけ出し、救われる。神は、大きな犠牲をも惜しまず、ひとり子をこの世に送られ、国々が信仰のうちに従うよう働きかけられた。

宣教は、この神の働き――送り出す側と、遣わされる側の両面――をある意味真似ている働きではないか。少なくとも、神が僕たちを用いようとされるのは、僕たちをよりキリストに似たものへと成長させるためだ。なぜかというと、神であるキリストご自身も、「宣教」をされたからだ。

神は、この世界がひとり子を知らないままに放っておくことはできなかった。同じように私たちクリスチャンも、何億人もの人がキリストを知らないままでいるのを無視することはできないのだ。

この話には続きがある。エズラと僕は、芝刈りを終えると、一緒にそのことについて語り合う。僕たちは芝刈りの仕事と同じくらい、この語り合いの時が大好きなのだ。「エズラ、神様はエズラに力をくださって、エズラはしっかり仕事をすることができた。エズラ、よくがんばったね!」彼の仕事を父親が喜ぶということを、僕は彼に経験してもらいたい。彼はこうして、「よくやったね、エズラ」というご褒美の言葉を受け取ることができるのだ。

もちろん僕は、彼を褒めながらも、エズラが自分の力で芝刈りをしたわけではないと知っている。

僕の助け無しには、芝刈りなんてできやしない。それでも、彼が芝刈りをしたという事実は変わらない。そして僕は、彼のその働きぶりを喜んでいるのだ。たとえ、一人でやるより時間がかかったとしても。

つまり、こういうことではないか。神にとっては、僕が加わることで宣教の働きがかえって難しくなり、余計に時間がかかってしまっているのだろうか?

それでも神は僕たちを遣わされる。それは、僕たちが主のために一歩踏み出すことを喜びとしてくださるからではないか?

宣教に送り出す側も遣わされる側も、それぞれが神ご自身の御業の内にあることを、神は喜んでおられるのではないか?

僕はこのことに気付いて、神の前に謙遜にさせられると同時に、安らぎを得た。到底僕は、宣教の働きを一人ですることはできないが、神なら、一人でもおできになる。そしてその神が、僕と共にいてくださると約束してくださったのだ。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28書20節)

エズラは、パパが一緒だからこそ、芝刈りが大好きだ。そして僕たちも、同じ喜びを味わっている。イエス・キリストの栄光を世界に知らせる働きには、父なる神が共にいてくださるのだから。